昭和44年01月01日 元旦祭
本年はお道の信心が始められまして、百十年と言うめでたいお年柄にあたっております。「立教百十年」あの立教神伝が下りましてからね、「世の中に難儀な氏子がたくさんあるから、取次ぎ助けてやってくれ」とこう、天地の親神様の神たのみのまにまに、教祖生神金光大神がお取次ぎの業を為して下さって百十年。この百十年と言うその、節年であり、有り難いお年柄をいよいよ有り難いお年柄にさして頂く為に、ひとつおおいに今年も、信心の稽古をさして頂きたいと思います。
信心のお話と言うか、信心を頂くと言うか、これはやはり銘々がその気になりませんと信心は頂けません。またお話も頂こうという気にならんと、それは有り難いものでもなんでもありませんね。ですから皆さんが本気でひとつ頂こうという気になると、それこそあの、お屠蘇(とそ))気分ではないですけれどもね、いつとはなしに、飲むほどに酔うほどに、酔いが回って有り難い気分が起こって来る様なもんです。やはり頂かなければね、それは味わうことはできません。
ですからどうでもひとつ信心を頂こう。いや信心によって幸せにならして頂こうという、ひとつの一心を発起しなければいけませんね。そして頂く気にならなければいけません。今朝から朝の4時の御祈念を奉仕さして頂きました。御神前に出らして頂いて、昭和43年1月1日のお届けをさして頂いておりましたら、何か知らんけれども、涙が流れてきました。これは私には、元日もなからなければ、大晦日もないと自分では思うておった。ですからまあ言うなら平日の通りである。
にもかかわらず、御神前に出て1日、1日というそして同時に、今日の元旦祭の事などを心の中に思わせて頂いて、御挨拶させて頂いたら涙が流れてくる。どこから湧いてくるかも分からん涙であったね。その中に神様はこう言う事を教えて下さった。今日若先生が5時の御祈念を仕えますのに待たせて頂くひと時でした、時にこれは書いてあるんです。「より明るく、よりにこやかに」と頂きました。「より明るくよりにこやかに」ね。もう、そして私は思うんです。
これを頂いていよいよ、難しい事だなと言う事です。そら誰でもにこやかにしておる時もありゃね、もう本当に心の中に百燭がともっておるように明るい思いをする事もございますけれども、それがいつの間にか、また真っ暗になっておるね。これが私どもの心なんです。もう心と言うのは実にコロコロと変わって、有り難かったかと思うと、もう有り難くないね。「有り難いなぁ有り難いなぁ」と言うよったら、すぐ有り難くなくなってくるね。「より明るく」と。
私はこの明るくと言う事がね、これは「日」に「月」と書いてある。「日」を書いて「月」を書いてあるね。日々がですねこの明るい心ね。日々が言うならば、この元旦の日のようにね、お互いが気分良い正月を迎えたり、その為にいろいろと精進し、いろいろと努力をする。今日も家族中でお屠蘇を頂かせて頂きました。私の方には正月の元日の、まあご直会と言うのが、言うならば実にお粗末である。元日だからと言うて、御馳走をこしらえる所は、日頃あんまりお御馳走をべてない所じゃないかと思う。
私の方はもう日頃は元日のような他所で言う。ほんとにいつも鯛のこんな大きな、もう鯛の切り身はもうあえたちゅうぐらいにその、おかげを頂いておるから、もう元日の日のいわゆるお節献立と言うんですか。それはもうほんとにそれは実にお粗末であるね。もう盛り皿に卵の厚焼きがまあ一番良かちゅうた。ああそれはほんとに宝物のようなのがありました。かずのこだった。かずのこはもうたくさん、二箱も頂いておったお供えに。ですからもうかずのこだけは、いつもにない御馳走でしたけれどね。
お魚と言うのは、このくらいばかりのメザシが二匹づつ、付いてました。これはもういつもです。これは家内の心作りです。お正月にはせめてね、お頭付きをと思うておってもそれが為さろうとしても、為せなかった時代もあるね。このヒゲ面のようなそのメザシでね、まあ頭付きとして、正月を迎えたことどもを、まあ今日の元日のお料理の中に、心づくしにつけてあるのであろう、と私はいつも思う。必ず付いちゃある。だから私はほんとに日頃おかげを頂いておると言う事が、それで感じられる。
だからもっともっと工夫して、例えば、卵焼きなんかこれは砂糖やら使わずに、もう塩だけぐらいいっちょ、こんだ作るように工夫したらどうかと。もっとまずい物にして、工夫しろと言うて、皆で笑って頂きました。言うほどに言わば私の方は、365日の今日だけがお御馳走でないのであって、普通はほんとに、世の中にありとあらゆる珍しいもの。ほんとにもったいないほどにおかげを頂いておる。皆さんが嘘と思われるかもしれませんけれど本当です。
買い求めたりするのでもないけれども、ほんとにこうやって、日々たくさんのお客さんもあるけれども、さあ、それだからと言うて、慌てて走って行かなければならない。冷蔵庫を開ければ、冷蔵庫の中にちやんと、様々な食べ物が入っておる。私はそれをしきりに最近は思うんです。もう体の調子が悪いから、もういろんな物を食べたいとか、飲みたいとか思う、思うんです。あれが食べたいと言うとあれが入ってる。あれを飲みたいと言うとちゃんとある。と言うほどに、恵まれておりますね。
そういうまあ言うなら、嘘のようなお話です。私はいつもこの合楽の信心を語る時ですね、これを本当と皆さんに思わせようと思う為に、非常に私は、骨が折れます。いわゆる真実性を欠く感じがする。合楽の話は「本当じゃろうか」と。たとえて言うならば、今日あの、たくさんこうやってお供えが、昨日の何でしたか除夜祭までは、お米が4俵だった。ところがあとまあ10俵ばっかりお供えせんならんごとなった。もうそれが12時頃からでしたから間に合いませんでした。
お酒はまだ5、60本お供えしなければならなかった。けどももうそれも間に合いません。ですから皆さんの思いを、まあお金でお供えさして頂きましたね。大きな鯛がお供えがあっとりましたからね、あれじゃからと言うわけではない。例えば今日なんかはもう、ほんと言うたらもう、危ないところで、鯛のお供えはできたかもしれんけども、ブリのお供えはできんとこじゃった。それがもう思いもかけない所から、あの神様へお供えしておるブリと、霊前様へお供えしておるあのブリが、二匹お供えがあった。
それが皆さん壱岐のね、壱岐の島と言うのがあるでしょうが。あちらにあのあちらから嫁さんもらった人があるんです。ご信者さんの中に。だから「嫁さんの所から送って来た」と言うてあの二匹のお供え。もしそれがなかったら、今日はあのブリブリとしたお供えができなかったわけです。考えてみるともう本当にですね、神様がさあ集めようとなさりゃ、壱岐の果てからでも、海の果てからでも集めて下さる事が分かるでしょうが。正月じゃからブリば二本、どっからか求めてあったと言うのじゃないです。
もしそれがなかったら、今日の元旦祭にブリはなかったね。ほんとにほんとじゃろうかと言うようなおかげを頂いておるですね。「信心しておかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ祈りてみかげのない時には、これぞ不思議なることぞ」と教えて下さるのですけれども、私はもう日々がもう日々がですね、もう不思議で不思議でたまらんのです。その、不思議で不思議でたまらない、言わば中に、こうして生活さして頂いております。ですから心が嫌が上にも有り難うならせて頂けれる。
嫌が上にも勿体無いという心が募らして頂けれるね。かと言うてんなら始めからそうではなかったと言う事。お頭付きの一本ひとつも欲しいけれどもね、言わばお正月きびなご二匹をお頭付きとして、家族中で頂いた時代があったと言う事ね。そういう難儀苦労をしたからこうなっただけではなくてですね。私どものはあげん貧乏しよったけれども、こげん儲け出したと言うのではなくてです、儲け出したわけはないね。
言うなら日々がその日暮らしですけれども、その日その日の中に真に不思議で不思議でたまらんと言う働きを頂いて、食べる事着る事に、衣食住全ての事の中にです、神様の働きを頂いておるね。それが、どう言う様な事から、このような事になってきたかね。教祖の神様に、天地の親神様が「世の中に難儀な氏子があり、取次ぎ助けてやってくれい」とこうお頼みになられて百十年。その間に、助けられた氏子はどのくらいにあるか分らない。それこそ、数を読めないほどでありましょうね。
けれども私のような助かり方になっておる者は、そうたくさんやはりないと思うんですね。そして私は思う。私のような助かり方になっていって始めて、天地の親神様が金光大神に神頼みになられたね。「世の中に実意丁寧な信心をしておる氏子がなんぼも難儀しておる。取次ぎ助けてやってくれ」と。ただの信心じゃいかん。金光大神の取次ぎによらなければね、「目出度目出度の若松様よ枝も栄え葉も茂るというではないか。
生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」と天地の親神様からおかげを受けられたお話を、そういう子孫繁盛の道に繋がる話を私どもにして下さって、限りなくおかげの受けられるおかげの道を教えて下さるのですから、その教えの道をね、私どもが自分のものにさして頂かなければ、それが血に肉にならなければね、ただ断片的に「このような不思議なおかげを頂いた」と言うのが時々じゃいかん。毎日毎日が不思議で不思議でたまらんと言う、不思議なおかげの中に住まわせて頂くおかげを頂く為にね。
去年一年、私どもの信心の焦点でありました、去年の例えば今日、私は皆さんにお話を申しました。「いよいよ豊かにいよいよ大きく」これを今年の信心のスローガンとしておかげを頂こう。私はこの御教えによって一年が支えられたと言っても過言ではない。どのような場合にあってもね、「ああ、ここで大きゅうならなん。ここで豊かにならなきゃならん」と言う事をです豊かになることが、大きゅうなると言う事が、いかに有り難いことかと言う事を知っておるから、それが楽しんでできる。できてきたね。
今年はこれですね。「より明るく、よりにこやかに」これはいよいよ難しい。けれども、この難しい事もですこう言う様な」生き方有り方にならせて頂けばね、にこやかになれれるんだ。ね。より明るく、心の上におかげを頂けれるんだと言う事を今朝の御理解にまあ言うなら、こんこんと30分間説かせて頂いた。今ここで説けと言うても、私はよう説けません。ですからこういうしかもそれを聞いても難しい。そのお話そのものが難しい。その気になって頂けば頂けれる。
ほんとに頂こうと思やどんなに、無学な者でも分かる話である。ですからね、頂くという気にならなければ、本気で飲まなければ、飲むほどに酔うほどにと言う機嫌。このたての酔いというものでも頂けませんように、信心のお話もその通りなのである。そこで私はその事はねまた今年一年、私があらゆる角度からまたこの事を説くでしょう。けれどもその、ははあなるほどと合点の行くようには、今日の朝の、朝の御祈念の後の御理解に説いてあるね。ですから皆さんが、「ははあ今年の信心は見易かね。
より明るくよりにこやかであれば良かじゃろう」それだけなんですね。「はあ今までよりもちっと明るくなりゃ良か」ち。「今までよりもにこにこしときゃ良か」ち。「ならあんまり難しい事じゃなかたい」と言う事ですけれども。なら皆さんいよいよ明るくなろうと、いよいよんならにこやかになろうと思うたら、その難しさに驚くね。だからそこまでいっちょ本気になろう、という気にならなければ、これが難しいと言う事すらが分からない。そして難しい事じゃない。
本気で教えの、教えを頂けば、教えはそれを道付けてくれるように、明るくもにこやかにもなれる道をちゃんと示しておって下さる、と言う事になるね。聞いただけなら見易い。もうすぐ暗記ができる。けれどもんなら皆さんがです、本気で今日から明るう、いよいよ「より明るくなろう。よりにこやかになろう」と言う事に努めると、その難しい事に気付く。そこに気付いてから、私はゆっくりこの話を頂いて頂きたいと思うね。暗い所には影は映りません。
日陰で影を求めてもそれは無理な話です。そうでしょうが。明るい所にはじめて影が映ずる。それは夜でもお月様が、昼を欺くかのような、煌煌とした光の中であったら、影が映りましょうね。いくら昼であってもね、真っ暗にもう今にも降り出しそうなと言う真っ暗な時には、影は映りませんね。私どもの心がですね、日に月に明るくとこう言う事ね。いよいよ明るく、その明るい心におかげが映ずる。おかげが映る。だからどうでも明るくならないかん。
その基盤ともなるもの、その土台ともなるもの、それは去年の信心である。昨夜の除夜祭にお話さして頂いたんですけれども。昨日私は御神前に出て、善導寺の親先生が、昨日子供たちがまいりました。で今晩の除夜祭に、祝詞をお父さんに上げるごと言いなさい。「いいえ、申し上げんからいりません」て、若先生が言うた時、「いや、そんな事じゃいかん。上げなさい」ね。
でお前がもろて来てくれち豊美にゅうたら、豊美にことづけてあります。私が読みきらんってこと知ってあるもんですから、ずーっとカナ使いをしなすってね、もうあの三井教会と言うところを合楽教会とから、書き替えて、そして下さった。と言うても私は、その、たいして読む気もせんもんですから、それでも親先生の思いをね、思いを粗末にしちゃならないと思うて、昨日もちゃんと、後取の方が、玉串とあれを、今日のようにして出してくれました。
ですからそれを私は、こう開かせて頂いてから、神様の方へお祝詞向けてから、「あの、これを親先生から頂いたですけん、神様、どうぞ見て下さい」と言うて、と言うてですね、私はそれを、あの玉串あんの上にお供えさして頂きましたら、神様からね、頂きましたが、目の前に大きな、今共励殿に据えてございます。大きなテーブルがお供え頂いたのが。それは見事な漆塗りのですね、もう金銭じゃ買われんと言うような物です。今日はそれで私どもは、あのお屠蘇を頂きました。
頂いたんですけれども、十五人の者が座ってから、もう一人二人は座りゃ座られる。ね。そんな大きな応接台ですね。その大きな応接台を普通では、五人から六人かの応接台なのに、その三倍くらいはゆうにあると思われる大きな、実際は三倍とは言いません。だけどですね、飯台を頂いたと言う事は、どう言う事であろうか。飯台とは、飯の台と書いてあるでしょうね。いわゆる飯は「まま」ままになる土台だ。
去年ね。夕べで言うなら、今年一年間、私どもが一生懸命におかげを頂いて、いよいよ豊かになろう、大きゅうならして頂こう。それに取り組みができたそれがですね、信心の、お互いの基礎になる。いわゆる「信心の確立」と言う事がこの頃言われますね、教団で。信心の確立とはね、私はそういう基礎そういう土台を作ると言う事だと思うんですね。そういう基礎を作る。そういう飯台を頂くと言う事なんです。
ですからこの上でままになるところのおかげを頂き、そのままになるおかげを頂く為に、今年はいよいよ明るくいよいよね、にこやかにですね。いよいよにこやかに心が明るくならして頂くということをもってです、いよいよおかげの年であり、おかげを受けさして頂けれる、いわゆるお年柄として、おかげを頂いて行きたいね。この10月の10日を中心におそらくは、5日か6日ぐらい、続いて御祭典があることでございましょうね。ここからもたくさんの人が、団体参拝する予定でおります。
皆さんたちもどうぞその事がね、もう本当に有り難うして有り難うして、一家中でお礼参拝さしてもらわなければおられない、というほどのおかげをですね、もう10ヵ月の間に、今から願うておかげを受けなければいけません。そん時どんになってから、お繰り合わせ頂いたら参る、と言った様な事ではなくてね。お礼参拝をさしてもらわなければおられないほどの、ひとつおかげを皆さん頂いて頂く為にもね、「いよいよ豊かにいよいよ大きく」と言う事を、ひとつの信心の確立として土台としてね。
これだけは、もういよいよ確実に頂いたとして、そして、その上にです。いよいよ明るい心に、おかげが映じてまいりますおかげを頂き止めて、今年のめでたいお年柄、百十年と言う、「立教百十年」と言う、めでたいお年柄をお年柄たらしめなければならん、というふうに思うておるのでございます。今日は青年会の方達が、去年からこれがまあ慣例のようになりましたが、まあ、バス一台ですか、5、60名の方達が、若い方達ばかりで団体を組んで、ご参拝のおかげを頂きます。
私どもは年末にお礼の参拝をさして頂きました。年頭の御挨拶であり年頭の言わば、お願い参りでございます。これから今年の信心がどのように展開してくるかは分かりませんけれども、ひとつ大いに張りきらせて頂いて、この寒修行が、5日の寒の入りの朝から行われます。去年からもあのように、まあ異常なまでの、それこそ熱気を帯びた御祈念会が1ヶ月間できました。
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